悲劇、ドラマ
普段、自分はニュースとかは見ないし、見ても大して何かを思う方ではないけれども、京アニの放火の件は結構ぐさっときた。
それは中学生から京アニの作品を観続けて来たからなのか、平成以降最大の放火事件と報道されていたからなのかは分からないけど、久しぶりにテレビに釘付けになったし少し涙も出た。
そして何年か振りにSNSを見て様々な他者の意見を見ていると、なんというか「ドラマだなぁ」という想いに落ち着いた。
人が死ぬ。意図せず死ぬ。これほど恐ろしい地獄はこの地球上には他としてない。
ましてや「悪」という社会の敵とすべき相手によって引き起こされた出来事であるなら尚更だ。
でも「私」はそれを観てる。観てるだけ。ただそれだけなんだ。どれだけ悲惨な事件で何万人も亡くなろうと、その当事者であろうと「私」は観てるだけなの。
そこで「ドラマ」は剥がれる。同時に何故自分が泣いたのか…その理由もはっきりしてくる。
人が死ぬ。死ぬのは人であって「私」じゃない。
人が死ぬことが何かの終わりと考えると、とても辛く苦しいし悲しくなる。
でも本当は何も終わってないし何も始まってない、ただ在るだけ。
被害に遭った側、被害を加えた側、そしてそれらを見つめる第三者側。これら全ての側面において「人(私)は死ぬと終わる」という絶対的な前提があって、ドラマは生まれる。
まぁ楽しいんだよね。ドラマチックは楽しいよ。別に自分の家が火事になってほしいとか、犯罪に手を染めることが楽しいということではなく。
自分vs悪(環境)というスタンスは一種のアトラクションというかRPGゲームみたいなものだ。
少なくとも自分は今までそのゲームを楽しんでたよ。この先も楽しみ続けるかもしれない、それはそれで楽しい。