他者を助けたいならば

学生同士のいじめの動画をたまたまネットで見て何とも言えない気持ちになった。

最近の学生は皆スマホを持っていることが当たり前だと思うし、どんなことでもネットに上げれば誰かに見てもらうことができる。

それは楽しいことなのかもしれないが、逆に言うならば自身のプライベートがいつ世間に知れ渡るか分かったものではない。

 

本当に今の学生は生きづらいだろうなと思う。小学生だってスマホを持っているこの時代は見様によっては狂気だと思う。

自分の学生時代はあまり楽しいと言えるものではなかった。正確に言うなら楽しもうとしなかった。他者から見れば羨ましいと思うことでも自分からすればコンプレックスだった。要は隣の芝生は青く見えていたのだ。

それは、他者がいて自分がいる、という客体思考からもたらされた理解なのだが当時はそんなこと知る由もない。というか知ってたなら学校なんて行く必要がないよね。

社会というレール上から外れることに恐怖や不安を感じるのは自分は無力で何としてでも世界に付いていかないと生存できないと思うからで、世界も身体も何もかも形のない「私」という意識視点が創造し観察しているだけだと分かると生存もクソもない。

学校というお互いの距離があまりにも近い場所はそれが合わない人には本当に辛いだけでしかない。

 

と、いじめの動画をみて思ったわけだが、では自分はいじめられている子達に何かしてあげれることがあるだろうか?答えは否である。

なぜならこの動画を自分が見ているということは、この動画を見ている場面を創造したのは「私」なのだ。

自分の周りの誰かが苦しむ、ネットやニュースで見た遠くの誰かが辛い想いでいる。

それらすべては自分の周波数がそういう場面を創造した、ということ。

どうしても他者を像ではなく他者(自分が観測しなくても実在し生活していると思われる概念的存在)と思ってしまうと罪悪感や劣等感、焦りや怒りなど様々な感情に振り回されてしまう。

だから、いじめの動画の被害者が今どうしているのかが問題なのではなく、その場面を創造した意識に全てを回帰させる。

他者を助けたければ自身の波動を上げていくしかないのだ。

そうすれば周りの像は勝手に変わっていく。