生き甲斐


自分がスターシードだと認識するようになってから、何かと幼少期の思い出や感情が思い出されるようになってきた。

たぶん、この週数間前に潜在意識を捉えることができるようになったことが関係しているんだと思う。スターシードだと認識できるようになったのもそのおかげなのかな。

 

思えば、自分は子供の頃から「社会」というものに対する不信感や疲労感のようなものがずっとあってそれは今も全く変わってない。

小学生の頃、友達は割と多かったし楽しい学校生活ではあったと思うが、もし「明日から友達に会えないけど学校には一生行かなくて良い」と言われたら迷わずYesと言っていただろう。

 

内向的、内省的。昔も今も自分は「自分自身」を見つめることが好きだ。

そしてそれ以外のことは極力やりたくない。

仕事なんて最も論外だ。人間って仕事に対する緊張感や恐怖感が半端ないよね。

休むことも労働の一部、労働至上主義として人間が資本の奴隷となって250年くらい?

 

ただ、世の中には働くことが楽しい、生き甲斐だとする人たちもいるらしい。

Youtubeのショート動画で仕事や収入を街ゆく人にインタビューする動画があって、「仕事楽しいです!」と目をキラキラさせながら答える経営者たちがいた。

 

素直に羨ましいなと思う。スターシードも自分の才能や能力に気づき、それを仕事にすると良いと言っている動画が多々あったが、それは自分にも当てはまるんだろうか。

 

スターシード

 

自分は大学生あたりから親との間に何か壁のようなものがあると感じていた。

それは没社会的な「仲が悪い」とか「傷つけられた過去」とかそう言うことではない。

 

エネルギー?的な壁。例えば妻や子供達、そういう存在はすんなりと自分に「入ってくる」。

エネルギーの抵抗がなくスッと収まる感じ。

 

対して、両親に対しては壁がありそこでエネルギーが塞がれている。だからうまく話せないし話したいとも思わない。できるだけ離れたいと思ってしまう。

この感覚を20代の頃もずっと持ってはいたが、せいぜい遅れてきた反抗期的なものだろうと片付けていた。

 

昨日、夜瞑想している時、ふとそのことが気になり大天使ミカエルに「どうして両親との間にエネルギーの壁があるんですか?」と聞いてみた。

 

すると「スターシード」と返答。

 

「ん?スターシードってなんだっけか。」

そう思い調べてみたら、めちゃくちゃ自分のことだった笑

 

あまり気にしたことなかったけど、確かにそうか。

10代から続く社会に対する不信感やそれを抱える自分への不快感。単に社会不適合だと自己否定してしまっていたが、ただのスターシードだったよ。

 

両親との壁も自分のエネルギーがそもそも地球のものではないから両親と干渉ができなくなってるらしい。親というのがよくわからないスターシードもいるんだと。

 

たぶん30歳のこのタイミングで気づけたのは自己否定が弱まったからなんだろう。

齢30にもなるとファッションとかモテるモテないとか世間の流行り物とか、他者のことが対して気にならなくなる。その分否定的な自己も弱まって、自然と融解したんだろう。(そういう方向に促してた側面もあるだろうけど)

 

スターシードは自覚することによって才能が開花したりするらしい。確かに、自覚し始めてからミカエルとの繋がりがグッと強くなった。

 

しばらく飽きるまではスターシードという単語周りの波動に目を向けていこうかな。

仲間を見つけるのもいいらしいね。何かコミュニティみたいなものはあるかな??

 

スピリチュアルはいらない。潜在意識の視点。

 

ここ数日、潜在意識に惹かれている。

 

潜在意識はどうやら意識の95%を占めていて、現実の創造の大部分を担っているらしい…。

他人と自分の区別や善悪の区別、論理的な区別などができず、「お金がある」と認識すればお金がある現実を、逆ならお金がない現実になる。

 

簡単に書くとこうなるが、実際じゃあ何で人間はみな望んだ通りの現実を創造できないのか。

個人的に思うのは、そもそも「願望」がある時点で潜在意識からしたら「ない」になってしまうのだろう。

引き寄せにはメソッドでよくあるアフォメーションや願望を叶った文言にして壁に貼る方法など、さまざまあるが、そもそも願いが願望になっているならアフォメーションする必要もなければあれこれメソッドを行う必要もない。

 

メソッドって「ある」を常態化させるためのものであってメソッドそのものには何も力はない。

さらに「ある」という認識も本来必要でもないのだ。自分がスマホを触っている時に「スマホあるな」とはならない。

 

じゃあ何で「ある」の重要性がこんなにスピリチュアルでは説かれるのか、それは「ない」の思考が圧倒的に強いからだ。

それを解くためにあらゆるメソッドが存在する。

 

だけど「ある」に収まることもまた「ない」に逆転してしまう。

結局、「ある」と思うから「ない」になる。

「ない」と思うから「ある」になりたくてメソッドを必死にやったり勉強したりして空回りし続ける。

これがずっと繰り返される。

 

これはどうしたもんかな。

自分もずっとそれを繰り返してたと思う。

けどここ数日「もうスピリチュアルやめていいんじゃないか」と思うようになった。

 


www.youtube.com

 

その後この人の動画を見て、「潜在意識の視点に立てばいいんだ」と気づいた。

 

潜在意識は他者の自己の区別がつかない、であるならば世界と自分の区別もないのだ。

世界にお金は溢れている。つまりそれが自分。

顕在意識からしたら何じゃそれは、ってなるけど潜在意識からしたら「そうだね」ってなる。

 

だから自分はお金持ちだった。時間も豊かさも持て余していた。めでたしめでたし。

 

こんな気持ちでいたら父から新型パジェロプレゼントしてもらったよ。すぐやってきたね。

 

プラーナ管

 

ここ半年くらいスピリチュアル系の本は全く読んでなくて、ブログとかもソロパブリッシュくらいしか見ていなかったが、昨夜、ふとスピ系の本を読み返したくなって本棚を漁った。

 

結婚する際に持ってたスピ本の40冊近くを売ってしまっていたので、手元にあるのは4冊ほどだ。

その中でも、「新ハトホルの書」が気になったのでパラパラと読んでみた。

 

この本、たしか買ったのが3年くらい前だったような。表紙の写真がちょっと不気味で、妻に「何その怖い本、表紙こっちに向けないで笑」と言われたのを思い出した。

 

読んでみると、あー懐かしいって感じ。

頭の中で無限のマークを思い描くワークとか頭の周りを白い光が回転するワークとかすごい真剣にやってたなぁ。

 

だけど、本書の前半部分に書いてあるプラーナ管に関する記述はすっかり忘れてしまっていた。

プラーナ管というものについては、あるヨギの自叙伝とかインド系の本を読んで知ってはいたけど、当時の自分はそれを認識することができなくて無視してたと思う。

 

で、改めてプラーナ管についての記述とそこに書いてあるワークをやってみたところ…。

 

あれ、プラーナ管が認識できる…!

自分の体の中心を縦に流れる金色の光の管がはっきりと認識できたのだ。

そしてそれを意識しながら呼吸をすると、すごい全身が震えてきた。それは寒いとかそういう事じゃなくて、ものすごい精妙な振動。

電磁波みたいな?オルゴナイトを持っている時の数十倍近いエネルギーが身体中心から溢れてきた。

 

多分自分にとっての次のステップはこれなのかなーと感じた。もうちょっと以前読んだスピ本を読み返すのもありかなと思った。

 

 

 

生命

 

最近、自身の波動の矛先、ワクワクが「生命」という概念に向いており、ぼーっと生命について考えることが多くなった。

 

生命と書いて、「いのち」と読んでも「せいめい」と読んでもいいわけだが、この生命とやらは全てのエネルギーの源になっている。ハイヤーセルフ的なものというよりはゼロポイントフィールドに近い。

 

自分は農業をしているので自然の循環を目にすることがよくある。

田んぼにはカエルがたくさんおり、そのカエルは虫を食べ、そのカエルを鳥が食べにくる。鳥が落としたフンは大地の栄養となり、稲にくっつくイネドロオイムシを秋近くになると大量のトンボが食べにくる。

刈った稲藁はロールにして牧場に提供する。その稲藁ロールを牛がたべ、フンを出し、それを堆肥として翌年田んぼに撒く。

 

自然は全てが繋がっている。無駄なものが何もない。そしてその循環を支えているのが「生命」である。

生命は一つの個体に宿るものではなく自然の循環の全てを支え動かすエネルギーだ。

生命は生死とは無関係であり、交差しない。

自然の循環には生と死が必要不可欠だが、生命は死ぬこともなければ生まれることもない。

なぜなら生命は全てだから。

 

我々だってそう。生きてることが全てじゃない。

生きること、死ぬこと。それらを超越したところに生命は存在する。そしてそれが本当の「私」であり、宇宙である。

 

地球に1人しかいない「私」。

文字通り自分と同じ顔をして同じ心を持った人間など1人もいない。小学校の道徳の教科書にも書いてあった。にもかかわらず、人は自分の価値を見誤る。他者と比べ、自分が劣っている部分を探し出そうとする。もしくは他者の醜い部分を暴き出そうとする。

 

そうなってしまうのは合理化に徹底した資本主義社会が原因であると自分は確信している。そして自分を社会の歯車の一部品であると錯覚することで所詮大勢の中の1人でしかないんだ、と思い込んでしまう。

 

そんなものではないのだ、本当の我々は。

見た目も社会的地位も、収入も環境も家族構成も過去も未来も、全て関係なく、我々は人間である以前に「生命」なのだ。

 

生命は人間が創り出した価値観とは混ざり合わない。ただ「在るだけ」。それだけで完璧で美しく、尊く、素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

「現実」はハートから立ち現れる

 

タイトルの通り、目の前にある現実はハートから現れるんだよね。信じるか信じないかはあなた次第(関暁夫風)。

 

昨日、瞑想している時にふとハートに意識を向けると全てが無になった。

「自分」は誰で、どこに暮らしていて、どんな人で、今まで何をして…。

 

仏教でいう観念のようなものがスッと全て消えて、ただ「在る」というドーナツの真ん中の穴のようなものが残った。

そして同時に現実とハートの関係性も感覚的に理解することができた。

 

現実ってスクリーンに映った映像のようなもので、それ自体に意味なんてないんだよ。

意味もなければ何かを動かす力もない。料理でいうところの出汁を全て出し切った鰹節のようなもの。

あんなの捨てるでしょ、現実も同じでもう何もないの。一切を出し切ってるから動かしようがない。

だから現実であーだこーだやっても疲れるだけで上手くいかない。一般的な物理法則に基づいて、「あれは出来そうにないな」とか「こんな夢は荒唐無稽だ」って決めつけてる。

 

大事なのはハートだよ。こちらは映写機、現実というスクリーンに映像を映す。そして無限のエネルギーに溢れていて、無限だからこそ0で何もない。

 

つまり現実をどうとでもできるということ。 

動かせるし、無かったことにもできるし有ったことにもできる。自由自在。夢も理想も100%叶う。

 

 

こういう事って色んなスピ本に腐るほど書かれてるはずだけど自分がちゃんと感覚的に理解できたのは今回が初めてだった。

 

数年前に読んだ引き寄せの法則の本で「願いは『すでに叶っている』と思いましょう」って書いてあったけど、そりゃそうだ。ハートの映写機が現実のスクリーンに映像を映し出しているんだもの。ハートで決めたこと、叶ったと決めたことがただスクリーンに映し出されるだけ。

当時は、ただの現実逃避でバカな考え方だなと思っていたが、書いてあることは至極当然の事実だった。

 

ただ、ハートに意識を落とすというのはちょっとコツがある。まず観念を外さないといけない。

ハートに入るにはハートと同じ0の意識にならなければいけない。

「自分は人間だ。男で何歳で今日は何を食べて…」って思考がある限りは0にはなれない。要は「私」に体積があると入れない。

そこはやはり普段から瞑想やスピグッズに頼って、感覚的に慣れていくしかないんだろうな。

 

ハートの面白さ、無限の創造性に自分は気づけたようだ。さて、ここからどんな現実を創造しようか。

 

 

 

スピリチュアル自分史(夢日記)

 

一般的に、というか自分が得ている情報の中では2012年と2016年がスピリチュアルにとっては大変革が起こる、とされていた年だったらしい。

 

みけさんのブログ、「ソロ•パブリッシュ」では、みけさんは11年の終わり頃にチャネリングが始まり、16年にゼロポが開いたと書いてある。

 

ほうほう、じゃあ自分の場合はどうなんだろう、何か重要な出来事や記憶に残るような事があったかなと思い返してみると、まず12年はクローン病になった年だった。

 

18歳、高校3年生の時になったクローン病のおかげというか、そのせいでというか、自分は半ば強制的に自身の半生を振り返ることになった。

ただ当たり前に過ごしていた毎日が実は何も当たり前なんかじゃなく、将来のことや身の回りのことよりも何か大事な事があるんじゃないのか、生きることとは何なのだろうかと気付かされた。

今振り返ってみるとその気づきというのはスピリチュアルへの気づきであって、自身の本質性への学びにメスが入ったんだろうなー。

 

不思議なことに当時、病院で病名を診断された時も入院中も自分を「不幸な人間」とは思わなかったんだよな。何かこれには意味があってここから何かが始まるって感じが密かにしていた。

 

そして16年、この年は自分の意識が完全にスピリチュアルに向いた年だった。

出会いはなんだったか、確か2chのまとめサイトで「おすすめの本紹介してくれ」ってタイトルのスレを見ていた時に、「神との対話」ってコメントを見て急にその本が気になって仕方なくなり、調べてみると自分が今まで読んだことないような非科学的な内容だったのに何故か夢中になり、amazonで購入してのめり込むように読んだ。

 

そこから完全に自分の意識はスピリチュアルに向いて、ヨガナンダの本を読んだり、クンルンネイゴンを独学でやったりと結構冒険していたと思う。

 

そういえば、近所のBOOKOFFで神との対話シリーズの本を探していた時に著者ドナルドウォルシュ氏のサインが入った本を見つけたこともあったっけ。なんかすごい感動したというか自分は導かれているんだ、って気持ちになった。

 

つまり、12年も16年も自分にとっては重要な年で、しっかりとスピリチュアルの大変革に巻き込まれていたのだ。

 

もっというと自分はずっとスピリチュアルに生きていた。気づかなかっただけで目に見えない存在達はいつも自分を見守ってくれていた。

 

今となってはこれらの記憶は「あった事」ではなく今この瞬間に重なっている夢の波動として感じる。

現実とは夢であり、一直線に進む時間の中を自分は歩いているわけではない。むしろ一歩も歩いていない。

 

12年も16年の記憶も夢の内容であって、つまりこれは夢日記なのだ。これを書いている今この瞬間も夢のワンシーンでしかない。