プラーナ管
ここ半年くらいスピリチュアル系の本は全く読んでなくて、ブログとかもソロパブリッシュくらいしか見ていなかったが、昨夜、ふとスピ系の本を読み返したくなって本棚を漁った。
結婚する際に持ってたスピ本の40冊近くを売ってしまっていたので、手元にあるのは4冊ほどだ。
その中でも、「新ハトホルの書」が気になったのでパラパラと読んでみた。
この本、たしか買ったのが3年くらい前だったような。表紙の写真がちょっと不気味で、妻に「何その怖い本、表紙こっちに向けないで笑」と言われたのを思い出した。
読んでみると、あー懐かしいって感じ。
頭の中で無限のマークを思い描くワークとか頭の周りを白い光が回転するワークとかすごい真剣にやってたなぁ。
だけど、本書の前半部分に書いてあるプラーナ管に関する記述はすっかり忘れてしまっていた。
プラーナ管というものについては、あるヨギの自叙伝とかインド系の本を読んで知ってはいたけど、当時の自分はそれを認識することができなくて無視してたと思う。
で、改めてプラーナ管についての記述とそこに書いてあるワークをやってみたところ…。
あれ、プラーナ管が認識できる…!
自分の体の中心を縦に流れる金色の光の管がはっきりと認識できたのだ。
そしてそれを意識しながら呼吸をすると、すごい全身が震えてきた。それは寒いとかそういう事じゃなくて、ものすごい精妙な振動。
電磁波みたいな?オルゴナイトを持っている時の数十倍近いエネルギーが身体中心から溢れてきた。
多分自分にとっての次のステップはこれなのかなーと感じた。もうちょっと以前読んだスピ本を読み返すのもありかなと思った。
生命
最近、自身の波動の矛先、ワクワクが「生命」という概念に向いており、ぼーっと生命について考えることが多くなった。
生命と書いて、「いのち」と読んでも「せいめい」と読んでもいいわけだが、この生命とやらは全てのエネルギーの源になっている。ハイヤーセルフ的なものというよりはゼロポイントフィールドに近い。
自分は農業をしているので自然の循環を目にすることがよくある。
田んぼにはカエルがたくさんおり、そのカエルは虫を食べ、そのカエルを鳥が食べにくる。鳥が落としたフンは大地の栄養となり、稲にくっつくイネドロオイムシを秋近くになると大量のトンボが食べにくる。
刈った稲藁はロールにして牧場に提供する。その稲藁ロールを牛がたべ、フンを出し、それを堆肥として翌年田んぼに撒く。
自然は全てが繋がっている。無駄なものが何もない。そしてその循環を支えているのが「生命」である。
生命は一つの個体に宿るものではなく自然の循環の全てを支え動かすエネルギーだ。
生命は生死とは無関係であり、交差しない。
自然の循環には生と死が必要不可欠だが、生命は死ぬこともなければ生まれることもない。
なぜなら生命は全てだから。
我々だってそう。生きてることが全てじゃない。
生きること、死ぬこと。それらを超越したところに生命は存在する。そしてそれが本当の「私」であり、宇宙である。
地球に1人しかいない「私」。
文字通り自分と同じ顔をして同じ心を持った人間など1人もいない。小学校の道徳の教科書にも書いてあった。にもかかわらず、人は自分の価値を見誤る。他者と比べ、自分が劣っている部分を探し出そうとする。もしくは他者の醜い部分を暴き出そうとする。
そうなってしまうのは合理化に徹底した資本主義社会が原因であると自分は確信している。そして自分を社会の歯車の一部品であると錯覚することで所詮大勢の中の1人でしかないんだ、と思い込んでしまう。
そんなものではないのだ、本当の我々は。
見た目も社会的地位も、収入も環境も家族構成も過去も未来も、全て関係なく、我々は人間である以前に「生命」なのだ。
生命は人間が創り出した価値観とは混ざり合わない。ただ「在るだけ」。それだけで完璧で美しく、尊く、素晴らしい。
「現実」はハートから立ち現れる
タイトルの通り、目の前にある現実はハートから現れるんだよね。信じるか信じないかはあなた次第(関暁夫風)。
昨日、瞑想している時にふとハートに意識を向けると全てが無になった。
「自分」は誰で、どこに暮らしていて、どんな人で、今まで何をして…。
仏教でいう観念のようなものがスッと全て消えて、ただ「在る」というドーナツの真ん中の穴のようなものが残った。
そして同時に現実とハートの関係性も感覚的に理解することができた。
現実ってスクリーンに映った映像のようなもので、それ自体に意味なんてないんだよ。
意味もなければ何かを動かす力もない。料理でいうところの出汁を全て出し切った鰹節のようなもの。
あんなの捨てるでしょ、現実も同じでもう何もないの。一切を出し切ってるから動かしようがない。
だから現実であーだこーだやっても疲れるだけで上手くいかない。一般的な物理法則に基づいて、「あれは出来そうにないな」とか「こんな夢は荒唐無稽だ」って決めつけてる。
大事なのはハートだよ。こちらは映写機、現実というスクリーンに映像を映す。そして無限のエネルギーに溢れていて、無限だからこそ0で何もない。
つまり現実をどうとでもできるということ。
動かせるし、無かったことにもできるし有ったことにもできる。自由自在。夢も理想も100%叶う。
こういう事って色んなスピ本に腐るほど書かれてるはずだけど自分がちゃんと感覚的に理解できたのは今回が初めてだった。
数年前に読んだ引き寄せの法則の本で「願いは『すでに叶っている』と思いましょう」って書いてあったけど、そりゃそうだ。ハートの映写機が現実のスクリーンに映像を映し出しているんだもの。ハートで決めたこと、叶ったと決めたことがただスクリーンに映し出されるだけ。
当時は、ただの現実逃避でバカな考え方だなと思っていたが、書いてあることは至極当然の事実だった。
ただ、ハートに意識を落とすというのはちょっとコツがある。まず観念を外さないといけない。
ハートに入るにはハートと同じ0の意識にならなければいけない。
「自分は人間だ。男で何歳で今日は何を食べて…」って思考がある限りは0にはなれない。要は「私」に体積があると入れない。
そこはやはり普段から瞑想やスピグッズに頼って、感覚的に慣れていくしかないんだろうな。
ハートの面白さ、無限の創造性に自分は気づけたようだ。さて、ここからどんな現実を創造しようか。
スピリチュアル自分史(夢日記)
一般的に、というか自分が得ている情報の中では2012年と2016年がスピリチュアルにとっては大変革が起こる、とされていた年だったらしい。
みけさんのブログ、「ソロ•パブリッシュ」では、みけさんは11年の終わり頃にチャネリングが始まり、16年にゼロポが開いたと書いてある。
ほうほう、じゃあ自分の場合はどうなんだろう、何か重要な出来事や記憶に残るような事があったかなと思い返してみると、まず12年はクローン病になった年だった。
18歳、高校3年生の時になったクローン病のおかげというか、そのせいでというか、自分は半ば強制的に自身の半生を振り返ることになった。
ただ当たり前に過ごしていた毎日が実は何も当たり前なんかじゃなく、将来のことや身の回りのことよりも何か大事な事があるんじゃないのか、生きることとは何なのだろうかと気付かされた。
今振り返ってみるとその気づきというのはスピリチュアルへの気づきであって、自身の本質性への学びにメスが入ったんだろうなー。
不思議なことに当時、病院で病名を診断された時も入院中も自分を「不幸な人間」とは思わなかったんだよな。何かこれには意味があってここから何かが始まるって感じが密かにしていた。
そして16年、この年は自分の意識が完全にスピリチュアルに向いた年だった。
出会いはなんだったか、確か2chのまとめサイトで「おすすめの本紹介してくれ」ってタイトルのスレを見ていた時に、「神との対話」ってコメントを見て急にその本が気になって仕方なくなり、調べてみると自分が今まで読んだことないような非科学的な内容だったのに何故か夢中になり、amazonで購入してのめり込むように読んだ。
そこから完全に自分の意識はスピリチュアルに向いて、ヨガナンダの本を読んだり、クンルンネイゴンを独学でやったりと結構冒険していたと思う。
そういえば、近所のBOOKOFFで神との対話シリーズの本を探していた時に著者ドナルドウォルシュ氏のサインが入った本を見つけたこともあったっけ。なんかすごい感動したというか自分は導かれているんだ、って気持ちになった。
つまり、12年も16年も自分にとっては重要な年で、しっかりとスピリチュアルの大変革に巻き込まれていたのだ。
もっというと自分はずっとスピリチュアルに生きていた。気づかなかっただけで目に見えない存在達はいつも自分を見守ってくれていた。
今となってはこれらの記憶は「あった事」ではなく今この瞬間に重なっている夢の波動として感じる。
現実とは夢であり、一直線に進む時間の中を自分は歩いているわけではない。むしろ一歩も歩いていない。
12年も16年の記憶も夢の内容であって、つまりこれは夢日記なのだ。これを書いている今この瞬間も夢のワンシーンでしかない。
お金はお金でしかない。
タイトルで落ちているが、お金はお金でしかない。
労働の対価であったり経済やサービスを動かす媒体というわけではない。
そういう思考は客体思考であって、自分の意識とは関係なく物事が動いているという前提でなりたつ思考である。
結局、お金があろうとなかろうと現実を創造することは可能だし、物事を動かすことにお金は必要ないのだ。創造の視点は自身のハイヤーセルフ、自分が全ての現実を創造している。
そうなるとお金というのはただの「お金」という概念でしかない。
労働とは。お金を得るためには。
「労働」、「仕事」。
これらの単語に自分はとても重いイメージを感じる。重くてモヤがかかっている。
なぜ人は働くのか?なぜ社会なるものがあるのか。
三次元で人間モードをしていた頃(記憶となる波動域)はそんなこと考えたこともなかった。
非三次元に慣れるようになってからは、「あれ?なんで自分は労働とやらをしているのだろう」と気にかけるようになった。
非三次元意識の状態、ハイヤーセルフ意識の状態というのは基本的にワクワクしていたりスーッと視界が晴れているような雰囲気になる。
が、仕事というプロセスを開始した途端その高い波動はガクーンと落ち、「明日明後日までにこれを終わらせなければ…。」と思考が沸騰し頭痛に悩まされる。
なぜ人間は仕事をするのか?それはお金を得るためである。ではなぜお金を得たいのか?それは生活するためには欠かせないから。
だからみんな汗水垂らして働く。嫌でも疲れていても働く。
でもそれって三次元的な発想、用は自分とは関係なしに働く法則やルールがあって、自分はそれに合わせていくしかない、という客体思考に他ならないのでは?
お金が欲しいなら素直に「お金そのもの」を創造すればいい。お金を手に入れるには基本働くという選択肢以外無いと思い込むからそれがそのまま現実となる。
つまり、
労働→お金→生活 となるのを
お金→生活 にしてしまえばいい。
お金は労働の対価という暗黙の了解が自分の中にはあって、それがどうしてもお金そのものを創造することを躊躇っていたように思える。
みけさんのブログではお金は負債を祓うツールとして生み出された、と書かれていた。
自分も最近「借りの哲学」という本を読み、「負債」という概念は原始社会の頃からあり、それが経済の基礎となっていることを知った。
潜在意識レベルにまで「お金は働いて手に入れるものだ」と認識していると、どうしても何もせずお金を手に入れることに罪悪感や負い目を感じてしまうかもしれない。
でもその思考こそが三次元意識であり、早急に手放して自分の本来の創造視点に還るべきだ。
お金は何も対価を支払わずとも創造することができる。現実とは自分が観ている夢なのだから。
「現実」との付き合い方
「普段」とか「日常」っていう時間が連続している表現の中に自分を落とし込むと、途端に世界は3次元と化す。化けるのはマインドの中だけだけど。
当たり前のことが実は当たり前ではなく、自身で作った設定、ハリボテであると気づくのには三次元マインドを外して意識を広く、マインドを自由にしてあげなければいけない。
その過程で必要なことは「現実にのめり込まない、注視しない」ってことだ。
現実を注視してその場その場の問題に対応していかなければならない、と無意識レベルにまで染み付いている「習慣」とも呼べるべきこのマインド操作は中々簡単に無くせるものではない。
でもその習慣に対し少しづつメスを入れていくことで「現実」というものに対してのイメージは着実に変化していく。
本来、「現実」に対して何らかのケアを施そうと思ったり、逆に「現実」を憎んで何か復讐を企んだり、そんなことは1mmもする必要がない。
ほんとに1mmも。だって夢ってそうじゃん。
例えば、自分が会社員をやってる夢を観たとして、朝起きた時に「あぁ、早くあの夢に戻らなきゃ。じゃないと夢の他の社員に迷惑がかかってしまう」って思ったりはしないでしょ。思っちゃう人は病院行ったほうがいい。
なんで思わないのかって、それは「その夢は自分が観てる創造してる」ってことに気づいているから。
「現実」ってものもそれと全く同じで、自身が観てる夢があるってだけの話。「現実」という世界に自分とその他大勢の他人がいる訳ではない。
でもそれに気づくのには「覚醒、目覚め、統合」と呼ばれるプロセスが必須だ。光に還るって表現もあるかな。アセンションもそうか。
それらは言葉にするとカッコいいし、なんか遠くに行けるような、真理に到達するってイメージもあるかもしれないけど、実際は「夢を見ていることに気づく。」ただそれだけのこと。
そうすると「現実」が何も脅威的ではないし、むしろ今まで自分が「現実」を脅威的に観ていたことに驚愕するよ笑。
「現実」に付き合おうとかそういう気持ちもなくなるし、付き合いをやめるとむしろ「現実」が自分に付き合いだすんだよね。なんか色々上手く行くようになる。