「現実」はハートから立ち現れる

 

タイトルの通り、目の前にある現実はハートから現れるんだよね。信じるか信じないかはあなた次第(関暁夫風)。

 

昨日、瞑想している時にふとハートに意識を向けると全てが無になった。

「自分」は誰で、どこに暮らしていて、どんな人で、今まで何をして…。

 

仏教でいう観念のようなものがスッと全て消えて、ただ「在る」というドーナツの真ん中の穴のようなものが残った。

そして同時に現実とハートの関係性も感覚的に理解することができた。

 

現実ってスクリーンに映った映像のようなもので、それ自体に意味なんてないんだよ。

意味もなければ何かを動かす力もない。料理でいうところの出汁を全て出し切った鰹節のようなもの。

あんなの捨てるでしょ、現実も同じでもう何もないの。一切を出し切ってるから動かしようがない。

だから現実であーだこーだやっても疲れるだけで上手くいかない。一般的な物理法則に基づいて、「あれは出来そうにないな」とか「こんな夢は荒唐無稽だ」って決めつけてる。

 

大事なのはハートだよ。こちらは映写機、現実というスクリーンに映像を映す。そして無限のエネルギーに溢れていて、無限だからこそ0で何もない。

 

つまり現実をどうとでもできるということ。 

動かせるし、無かったことにもできるし有ったことにもできる。自由自在。夢も理想も100%叶う。

 

 

こういう事って色んなスピ本に腐るほど書かれてるはずだけど自分がちゃんと感覚的に理解できたのは今回が初めてだった。

 

数年前に読んだ引き寄せの法則の本で「願いは『すでに叶っている』と思いましょう」って書いてあったけど、そりゃそうだ。ハートの映写機が現実のスクリーンに映像を映し出しているんだもの。ハートで決めたこと、叶ったと決めたことがただスクリーンに映し出されるだけ。

当時は、ただの現実逃避でバカな考え方だなと思っていたが、書いてあることは至極当然の事実だった。

 

ただ、ハートに意識を落とすというのはちょっとコツがある。まず観念を外さないといけない。

ハートに入るにはハートと同じ0の意識にならなければいけない。

「自分は人間だ。男で何歳で今日は何を食べて…」って思考がある限りは0にはなれない。要は「私」に体積があると入れない。

そこはやはり普段から瞑想やスピグッズに頼って、感覚的に慣れていくしかないんだろうな。

 

ハートの面白さ、無限の創造性に自分は気づけたようだ。さて、ここからどんな現実を創造しようか。