マインド帯で叶えちゃおう/現実への力み

先日、バラエティ番組を観ていると16歳にして俳優やアーティスト、モデルとして活躍している人が出演していた。

 

「はぇーすごい人がいたもんだな」と思い、その後風呂に入ったのだが、なんだか意識がモヤッとしていて少し重い。

 

こういう場合、あの人はあんなに凄いけど自分は全然だめだ、みたいな隣の芝生が青く見える状態になっている。昔からの癖みたいなものだ。

 

この思考の前提にあるのは「自分にはできない」というネガティブな思考である。なぜ出来ないという前提になるのかというと、「現実はちょっとやそっとじゃ変わらなく、時間をかけて努力しなければならないからだ」、という客体思考が働いているためである。

そしてその思考が隣の芝生は青い状態を作り出していて、現実は世知辛いと思わせている。

 

その歪んだ思考はZPFに還す。だけど、そこから生まれる「願望」はZPFに還さずマインド帯で叶えてしまう。

 

この場合、「自分にはできない」という思考は還すが、そこから生まれた「自分も有名になりたい、クリエイティブなことがしたい」という願望はマインド帯で実現させてしまう。端的に。ただただ純粋に。そして、それが現実になるかどうかは一切気にしない。これが重要だ。

 

そもそも願望を「現実(物理像)」で叶えようという働き自体が客体思考だ。

 

目の前の現実は何の繋がりもないただの一枚の絵みたいなもので、本来は脈絡も何もない。

自分が今まで何をして来たとか、これからどうなるか気にするのは客体思考を使っている典型だ。

 

そして現実の動向を気にしているから波動はどんどん下がっていく。だから気にせずにマインド帯で願望をどんどん叶えていく。そして結果は気にしない。

 

どんなに卑しい願望だろうが綺麗事だろうがマインド帯で純粋に叶えると思考はスッキリするし、感覚として黄金色に輝いているイメージになる。

 

どうしても現実での結果を気にしてしまうのは、現実への力みがあるからだと思う。

 

みけさんのブログにいい例えが載っていた。

 

物理像にスポットを当てると、必ず、そこに評価や判断が被さり、

どうなるんだろうどうしようといった心配がはじまるしくみになっているのです。

これを宇宙人とか天使とかのentity目線で見ると、

道を渡るときに、道路の凹凸や手足の動きに注意が行ってしまって、

とっとと渡れる道を、ぎくしゃくとひどく苦心しながら横断している、とか、

隣の部屋に行くのに、今日はドアがちゃんと開くだろうかと気にしているとか、

そんなふうに見えるみたいだ。

実際には、特別な事情がない限り、道を渡るときには渡り切れるかどうかを心配したりせず、

さっさと渡ってしまうし、隣の部屋に行くのにドアの開閉を気にかけたりしません。

物理像への目配りって、そのくらいでいいんです。

 

 

現実に対してあれやこれやと手をつけるのも考えるのも願望が叶うのか気にするのもある意味「人間らしい」ことなのかも。