生命

 

最近、自身の波動の矛先、ワクワクが「生命」という概念に向いており、ぼーっと生命について考えることが多くなった。

 

生命と書いて、「いのち」と読んでも「せいめい」と読んでもいいわけだが、この生命とやらは全てのエネルギーの源になっている。ハイヤーセルフ的なものというよりはゼロポイントフィールドに近い。

 

自分は農業をしているので自然の循環を目にすることがよくある。

田んぼにはカエルがたくさんおり、そのカエルは虫を食べ、そのカエルを鳥が食べにくる。鳥が落としたフンは大地の栄養となり、稲にくっつくイネドロオイムシを秋近くになると大量のトンボが食べにくる。

刈った稲藁はロールにして牧場に提供する。その稲藁ロールを牛がたべ、フンを出し、それを堆肥として翌年田んぼに撒く。

 

自然は全てが繋がっている。無駄なものが何もない。そしてその循環を支えているのが「生命」である。

生命は一つの個体に宿るものではなく自然の循環の全てを支え動かすエネルギーだ。

生命は生死とは無関係であり、交差しない。

自然の循環には生と死が必要不可欠だが、生命は死ぬこともなければ生まれることもない。

なぜなら生命は全てだから。

 

我々だってそう。生きてることが全てじゃない。

生きること、死ぬこと。それらを超越したところに生命は存在する。そしてそれが本当の「私」であり、宇宙である。

 

地球に1人しかいない「私」。

文字通り自分と同じ顔をして同じ心を持った人間など1人もいない。小学校の道徳の教科書にも書いてあった。にもかかわらず、人は自分の価値を見誤る。他者と比べ、自分が劣っている部分を探し出そうとする。もしくは他者の醜い部分を暴き出そうとする。

 

そうなってしまうのは合理化に徹底した資本主義社会が原因であると自分は確信している。そして自分を社会の歯車の一部品であると錯覚することで所詮大勢の中の1人でしかないんだ、と思い込んでしまう。

 

そんなものではないのだ、本当の我々は。

見た目も社会的地位も、収入も環境も家族構成も過去も未来も、全て関係なく、我々は人間である以前に「生命」なのだ。

 

生命は人間が創り出した価値観とは混ざり合わない。ただ「在るだけ」。それだけで完璧で美しく、尊く、素晴らしい。