量子跳躍

例えば絵画の展覧会に行ったとする。

何百と絵画がある中で、一つの絵に注目する。

 

それは病気の人が苦しんでいる、という内容の絵だった。自分はそれをじっと見つめる。

 

最初は飽きないがしばらく見ていると「もういいな、見飽きた」といった感覚になってくる。

 

さて、この時普通ならばどういった行動を取るだろうか?普通ならば足を動かしその場を離れ他の絵画に視線を移すだろう。

 

しかし、ある人は飽きたのにもかかわらず、その場から離れずにじっと絵画を見つめ続ける。

 

「自分はここから離れられない。何故なら自分は絵そのものだから。この絵を見続けるしかないんだ」と謎の心理が働き動こうとしないのだ。

 

他にも、「もう見たくない!」と言って絵画を粉々に壊したり、絵の具でぐちゃぐちゃに塗りつぶしたり…とにかくその絵画から視線を外そうとしない。

 

何故か「他の絵画を見る」という選択肢を選ばずにその場を動こうとしない。

 

「現実」というものに対しても似たような手段を取る人がほとんどだ。

 

目の前で起こっている出来事やこれから起こりうる可能性に「どうすれば…」と思考を巡らせるが、それは「現実の中に自分はいて、自分がなんとかしない限りは何も変わることはない」という客観思考から生まれるものである。

 

同じくして、目の前の現実をぐちゃぐちゃに壊そうとする人(誰かを傷つけたり、自身を傷つけたり)、スピリチュアルの知識を用いてなんとか現状を「変えよう」とする人。

 

もし今見ている現実に飽きたり、「見たくないな」と思ったならば、すべきことはとても単純で「見なければいい」。

 

現実というのは連続し繋がったものではなく一つ一つの場面が順序を持って重なっているだけであって関連性は一切ない。

 

「関連性がある、現実は連続で繋がっている」という客観思考があるから現実はそのような形で創造されているだけである。

 

さらに、その現実を創造し観測している「私」は現実の中の存在ではなく、絵画を見ているギャラリーと同じく、現実の内容とは関係なく自由そのものだ。

 

このことを「感覚的」に理解し、現実という絵画を見ている「私(存在)」まで意識を拡げたときに量子跳躍は起きる。

 

①「『私』は社会に生きている人間で、お金がないと死んでしまうしそのためには働かないといけない。他人に認められないと価値もない」

 

と、「私」をとても小さく制限し、絵画の中の住民として設定しその中のルール(物理法則や社会的ルール)に縛られながら「生きる」のもあり。

 

②「いや、『私』は現実という絵画を創造しながら同時に観測している『存在』で、生き死にの概念や物理法則に縛られるものではないし、社会的な存在でもなく現実の中の住人ではない、ただのギャラリーだ。」

 

と、本来の「私」意識、無限大で何者でもなく、全てを創りただ見ているだけの「存在」にまで意識を拡げるのもあり。

 

個人的には②の方が好きだ。人によって①の方が「サヴァイバル的でドラマチックで面白い!」ということもあるだろう。

 

でも①の意識でいるのは疲れた。

現実を連続的に捉えて、「努力してなんぼだ!社会はそんなに甘くないし逆境の中でも踏ん張るのが我々人間だ!他人に認められてようやく一人前なのだ!」みたいな人生論を訴える人を見ると「うはーすげぇ、頑張ってくれ〜」ってなる。

 

そういう人は結構年配に多い。