二元性の舞台
私たちは生きている、ということになっている。
そして、いつかは「死」を迎える…ことになっている…社会的な常識として。
自身を「生」と定義した瞬間に「死」が浮かび上がってくる。生と死は一つでセットだ。
でも、じつは「死」を経験した人は地球には一人としていない。何故なら死んだら戻ってこられないから。他人が死んだ瞬間を見たことはあるが、自分自身は死を経験したことはない。
臨死体験をした、という人はいるっぽい。高校の頃に本を読んだことがある。でもそれは本当に「死」だったのだろうか?ただ夢を観ていただけなのでは?
実は「死」の定義もその実態もとても曖昧であり、誰も未だ体験したことはないのだ。
だとすれば「死」を恐れるのは何故なのか。そもそも「死」ってなに?という疑問は一度は皆考えたことがあるのだと思うが、結局答えは出てこない。
むしろ世間では「死」ついて考えることはタブーになっていると思う。
昨日、言語化は出来ないがとても象徴的な夢を観た。それは二元性を象徴としていて、自分はそれを上から見ているような構図だった。
朝起きて、ぼーっとしていると少しづつその意味が明確になってきた。
結局、この星の価値観を支えている思考パターンには必ず二元性が潜んでおり、その二元性は本来の事実を濁し、分離させ、難解にさせる。
「死」についていえば、体験したことのない死が恐ろしくなるのは、「生きている」と思うからである。生きているという思考は二元性に支えられ、そこから「死」という概念が生まれる。
生きようとすればするほど「死」は濃くなり、死のうとすればするほど「生」は濃くなる。
そしてその二つは元は一つなのだが二元性のフィルターを通すことにより複雑に、難解になる。
二元性のフィルターを通さなければ真実は至って簡単で、私たちは実は生きてもいないし死にもしない。
そういう存在なのだ。
生→死というプロセスは二元性のフィルターを介してのみ発生する。
生きよう、生き延びようとする精神論。一見、美しく見えるかもしれないが、実はそう思えば思うほど「死」の概念にしがみついているのだ。