物質は「存在しない」

世界があって私がいる。

この当たり前の認識に自分のスピリチュアル的精神は「No!」と反発する。物質なんてものはないのだ。

 

今、目の前に認識される景色がある。

誰かが話していたり、何かに触れていたり。

それらは感覚の束であり、その原点に当たるのは常に自分の意識。自分が全ての感覚の創造主。

 

「現実」と呼ばれるこの感覚の集合体はとても感覚が濃い。固く、重く、常にそこにあるのが当たり前であり、自分がこの場から居なくなっても何も変わらないのであろう、と思ってしまう。

 

でもそれは「そう思う」だけで、その想いが現実を創り出す。用は制限された3次元世界が生まれる。

 

逆に「物質は存在しない。自分が感じている景色があるだけで、自分の感覚が変われば景色も変わる」

と、自身の意識に創造点を置いた捉え方をすれば現実はそのようになる。

 

これらの認識論は論理的な話ではなく、単に感覚が変わるから分かる。ある日、急に「あ、物質って存在しないんだ」と感覚的に分かるようになる。

 

それは自分の意識が広くなり、3次元世界に向いていた視点が少しずつ違う次元に向くようになるからなんだろう。

過去の自分、今の自分。エネルギーの向き。

最近、自分のエネルギーは何処に向いているのか、ということを注視している。

エネルギーは「自分が気にしていること」と言い換えてもいい。

 

自分は何を気にするのか?

好きなことか?嫌いなことか?

趣味に興味を示すか、世の中の事に興味を示すか。

ネガティブ、ポジティブ、日頃どちらの話題に目を通すことが多いか?

自分の将来のこと、哲学観、世界観を大事にするか。

他人が何を考えているか、他人にどう思われているかということを大事にするか。

 

別にこれらのどれを気にするかで「良い、悪い」が決まるわけではない。

ただ、「自分はこうしたい、こういたい」という想いはエネルギーの流れを誘発しそこへ導く。

 

それは何かは分からないし、仕事とか生活に関わることとは関係ないかもしれない。

そもそも現実にならずに、なんとなくピピッと電気信号のようなものが身体を流れて終わることもある。

 

エネルギーが何処に向いているのか気づくためにはリラックスしている必要がある。

変に偏った思考や執着があったり、固定観念に縛られていると本当に自分がやりたいこと、行きたい場所へは中々行きづらくなる。

 

そして、自分にとってエネルギーが流れる方向は昔とかなり変わったと思う。

 

学生時代、小学生から大学を卒業する頃まで、基本的に自分は「他人が何を思っているのか」に意識が向いていた。

 

他人に嫌われないように、変に目立たないように、自分<他人になるように生き方を選んでいた。

そのせいで学校に行くのは辛かったし、相当ストレスもかかっていた。常に緊張していて疲弊していた。社会的にはそれが普通なのかもしれないけど。

 

でもそれは良い事でもないし悪い事でもない。

ただそういうエネルギーの流れを自分で創っていただけなのだ。

 

今は常に「自分が何をしたいか」に意識が向いてきている。自分>他人となり、ワクワクやフワッと軽い感覚に乗っていると新しい何かに出会うことがある。

 

それは自分が過去に諦めた事だったり、捨てたものだったり。何かに疲弊することも少なくなった。

 

今と過去。人生は続いているようで実はそうではない。エネルギーは流れの向きを変え、自分の興味も変わる。

 

その時に「自分は過去はこうだったからこれは無理だ、できるわけがない」と、諦めることはあまり意味がない。

素直に自分の欲求に、エネルギーに乗った方が気持ちも楽だし、割とうまくいくことのほうが多い。

 

 

 

 

 

 

 

自分は何を見ているのか

改めて、「自分は何を見ているのか」ということを再認識することが重要なんじゃないかと思った。

 

例えば、テレビ。

ワイドショーや報道番組では毎日「これが問題だ!」と様々な情報が流れているが、実は自分が見ているものは「テレビ画面」であって実際に何かが起きたその場面を見ているわけではない。

 

「あぁ、またこんな悲惨な事件が起きて、いつになっても世界は平和にならないな。こんなバカな人がいるからいつになっても…」

 

とマインドはあれやこれやと沸騰するが、自分が見ているのはテレビという機械の画面を見ているだけであって、その向こうで本当に何かが起こったと思い込んでいるのは思考システムである。

 

スマホでも同じことが言える。ネットニュースや誰かへのヘイトなどがあるが、自分が見ているのはあくまで画面であって、見ている情報への反応というのは思考システムでしかない。

 

そこで、テレビを見ている時、内容を意識するのではなく画面やテレビのフレームなんかに意識を集中してみる。すると面白いくらいマインドは何も思わない。交通事故やコロナのニュースを見ても、それはニュースではなく「模様」として捉えることができる。

 

 

「何が実現するか」はどうでもいい

ヒーラーであるMOMOYOさんの動画観ていると、コメント欄に「どうすれば引き寄せを上手くすることができますか?」というものがあった。

 

そういえば、自分も数年前は引き寄せについてあれこれと調べていた事があったが、最近はそういったものには全く関心を示さなくなった。

 

それって何が変わったんだろう?何故関心を示さなくなったのだろう?と思っていると、今日ふと答えのようなものが浮かんだ。

 

自己実現、現実を変える、希望を叶える。

なぜ人は現実を変えて何かを叶えようとするのか?

その根底にあるマインドは「今の自分は『救われていない』」だと思う。

 

今の自分ではない理想の自分がいて、その自分は「救われた」自分なのだ。希望や欲望が叶えられた状態を人は「救われた」と判断する。

 

だからスピリチュアルを「自分を救う事ができるツール」として自身の人生に活用しようとする。

福利厚生を整えてマインドが理想とする「救われた状態」になんとか現実を変えようとする。

 

それが良いとか悪いとか、そういうことではないけど、3次元に意識が向いたままで、言わばテレビの画面に張り付いているような状態は変化しない。

 

このテレビ画面に張り付いたままの状態、これってすごいストレスなんだよね。少なくとも自分にとってはそう。何かを叶えたとしても、また次の問題やら欲求がやってきてキリがない。

 

そして面白いのは、この画面に張りついている状態から抜け出す、画面から離れる、3次元に意識を向けるのをやめる、これが起きると実は自分は既に「救われている」ということに気づく。そもそも自分は「人間」ではないと気づくし、生き死にとか全く関係ないし、何が良くて何が悪いのか、そういうのも何かどうでもいいなってなる。

 

「あっ、自分ってすでに救われてるじゃん、何かを無理に望まなくていいんだ。」このどんでん返しはとても驚愕だし、灯台下暗しって感じ。

 

だから自分にとってスピリチュアルへの捉え方は以下のように変化した。

 

スピリチュアルは「自分を救うツール」ではなく、「既に自分は『救われている』と気づくツール」なのだ。

 

この真実に気づくと自然と何かを叶えようという欲求も無くなっていく。今現在、全ての欲求が無くなったわけではないけど、前よりはかなり落ち着いてきたかな。

 

端的に「何が実現するか」はどうでもよくなるのだ。みけさんのブログ「ソロ•パブリッシュ」にも以下のように書かれていた。

 

統覚視点(私)にとって、高次、マインド、五感で何かが実現していくことは、
まったく副次的で、余技というか、気づきや発見の「ついで」みたいなものです。
実現がいくつかのプロセスをへて(時間をかけて)起きる場合でさえ、
そうするのは気づきや発見の「数を増やす」ためでしかありません。

 

MOMOYOさんの動画の内容というのは基本的にスピリチュアルを用いて現実をうまく生きよう、スピリチュアルをうまく組み込もう、が大元のテーマなんじゃないかと思う。

 

それはそれで一つの視点、芸術作品をどう見るか、ということであって、自分とは違ってても何も問題はない。MOMOYOさんの動画を見て共感出来ることもあれば、できないこともある。それはそれで良い。

 

何故共感できないのか、ということについてスピリチュアルというツールをどう見るかという視点が関係してたことを言語化出来たことは嬉しかった。

 

非局在感

「非局在」という単語がある。

意味は「どこにもいない」といったところだろうか。

 

何ヶ月か前に購入した「新•ハトホルの書」を久しぶりに読み返すと所々にその単語が出てくる。

そして、何故かその単語の意味が感覚的に分かってしまう自分がいる。

 

「非局在」という単語から感じられる波動、イメージ、それらは自分をとても懐かしい気持ちにさせる。

 

「ああ、自分って元はこんなだったな…。」

「私」は今観ている景色の何処にも存在しない、同時にその観ている景色、環境そのものが「私」である。それが感覚として分かる。私は人間ではない。

 

「今」は人間として制限された世界で生きている…わけでもなく、今この瞬間にも人間ではないのだ。

 

社会があって他人との関係があって…みたいなことも全く視野に入らない。というか考えることもできない。今書いている時点では考えることもできるけども。

 

何者でもないし形もない。それだけ。

そうとしか言えない、何もすごいことじゃないね。

 

非局在感を急に感じられるようになったのは、「新•ハトホルの書」に掲載されている幾何学を用いたエネルギーワークを久しぶりに実施したからだと思う。

 

このワークは個人的にはかなり強力で毎回ビリビリと身体に電気信号が流れる。

 

本当の「私」に還る準備は着々と進んでいる。

いや、進んでいるのではなく「気づいている」だけか。

HSPとスピリチュアル

確信的な根拠があるわけでは無いが、HSPというものはスピリチュアル、ひいてはスピリットやハイヤーセルフといったものと関係性があるんじゃないかとふと感じた。

 

自分はHSPの気があるとは思う。顕著に出るわけではないが、少し他者が気になったりすることはある。

 

たまにその気が暴走して疲れる事もあるし、よくよく思い出してみると学生時代は結構あーどこーだと気にすることが多かったと思う。

 

最近、そのあーだこーだと気にしてしまうマインドの根っこの部分に相当する波動を捉えることが出来たのだが、言語化すると「人間になろうとしていることへの反発」と表現できる。

 

要は、「人間」として社会のルールやマナー、他者との距離を測る行いは実はとてもストレスのかかることで、何処にストレスがかかるかというと自身のスピリットやハイヤーセルフとの関係、繋がりにストレスが生じるのである。

 

その結果、本来はしなくていい方向にマインドが働くため、反発としてHSPのような他者を気にしすぎる、恐れる強迫的な状況が生まれるのだと思う。

 

何年か前、スピリチュアルの動画で「ストレスというのは『あなたはそれをすべきではない』という宇宙からのメッセージなのです」と言っている人がいた。

 

HSPというのはそれと同様に、ハイヤーセルフやスピリットと無意識に繋がりつつあり、自身の波動が高まって来ているのに外側に意識を向けてしまうことで反発として生まれるものなんだと思う。

 

自分がちゃんとスピリットと同調している時はHSPの様な症状は出ない。HSPっぽい人ってもしかしたら波動が高い証拠なのかも。

 

現実は思考の一部である

普段、自分があれこれとメモしているiPhoneのメモ帳をふと見ると「現実は思考の一部である」と書き込んであった。

 

いつ書き込んだかは忘れたが、確か急にふと思いついた事をメモしていたような気はする。

 

人はいつも色々なことを考える。考えるということは思考しているということ。その思考を想像しているのは紛れもない自分である。

 

現実も同様に創造している。自分でね。

想像=創造。

とにもかくにも現実の創造の視点は全て自分にありその感覚は普段観ている夢や想像する思考と全く同じ。

 

思考するように目の前の景色を見つめると自然と意識は後ろへ下がっていき、ただ「在る」になる。

 

創造主、クリエイター。こう書くとすごい神々しく感じるけど、実際は普段している思考みたいなものでなんてことないのである。