アングロサクソンミッション

普段ニュースは見ないから知らなかったけどコロナウイルスが世界中に蔓延しているらしい。

つい最近までアジア近辺でウヨウヨしていた菌は世界に広まってしまっていたようだ。

どうやらオリンピックも延期になったらしい。

 

結構世紀末感が漂っているが、どうやらこのパンデミックは計画されていたものだという説がネット上で飛び交っている。

 

YouTubeで「アングロサクソンミッション」と検索すると出てくる50分近くになる動画が噂の発端で、帽子を被った男がひたすら世界の陰謀について話すという関暁夫感漂う内容だが、面白いのはその動画が投稿されたのは今から10年近くまえの2010年なのだ。

 

10年も前の動画なのに話している内容はまさに今のパンデミックのことで、「中国は風邪をひくだろう」と、もうずっと前から計画されていたものだと動画からは分かる。

 

自分はこういう陰謀論は事実かどうかはさておいて、割と好きなジャンルではあるので、寝る前にボーッと動画を観ていた。

 

すると後半部分になって「人間の意識」についての話題が出てきた。話によると、どうやらイルミナティやら世界を牛耳っている方々は人間の意識というものがもっと無限大で可能性に満ちていることを知っているらしいのだ。アメリカの軍ではロズウェル事件を通してそのことに気づいたらしい。

 

急にスピリチュアルな話題になったな、と思ったが、上の人間がそういうことに気づいているなら、何も怖いことなんて無いじゃないかと疑問を抱いた。彼らも知ってたんだね。

 

用は「彼ら」がしたいことは気づかせないことなのだ。逆に言うなら彼らが恐れているのは「気づかれること」。

自分達が人類を支配したいなら、一人一人が持つ可能性、能力に気づかせないような方法をひたすら取る必要がある。

 

今回の件もそのうちの一つなんじゃないだろうか。だったら一人一人がすることは単純で、ニュースや外側の情報に気を向けずにひたすら内側に集中すること。社会システムの崩壊、生存や維持の方向に意識を向けないこと。

 

そうしているだけでも勝手に意識は拡がる。波動は上がるし、恐怖心や不安感も無くなる。社会的な物事に目を向ける必要を感じなくなるし「社会」というものが本来の波動とズレたものであると理解できるようになる。

 

少なくとも今の自分にとってイルミナティやら支配者という立ち位置にいる方々は別に恐怖でもなんでもない。その方々をどうにかしようとも思わない。

彼らは物質的なことでしか我々を制御できないのだ。逆に可哀想なのは彼らだと思う

 

わざわざ無限の意識に目を向けず、人類を支配することに躍起になっているのであれば、そっちの方がよっぽどハードモードである。

 

 

ドリーン・バーチューと天使のささやき

ドリーン・バーチューという方の「エンジェルガイダンス」と「ラファエルの奇蹟」という本を購入。

 

これらの本は二つとも、天使とはいかなる存在でどのように関わることができるのか、という点について書かれていて、天使に会った人の話や実際にガイダンスを受け取る方法等が細かく記載されている。

 

自分はここ数か月、大天使メタトロンサンダルフォンを身近に感じることがあった。

実際に姿かたちを見たわけではないが、意識に振動を感じ、「彼ら」が呼べばすぐに来てくれる存在なのだと確信していた。

でも、何か具体的な助言を頼んだり、助けを求めたことはなかった。

ただ呼べば意識がすっきりして気持ちよくなるから、たまにエネルギーの浄化をお願いするくらいだった。

 

んで、先週。なんとなく「もっと天使について知りたい」と思った。思わされているのかもしれないけど。

 

「エンジェルガイダンス」にはガイダンスの受け取り方は4つのタイプに分けることができると書かれていた。

・視覚型

・聴覚型

・感覚型

・思考型

の4つで、自分がどのタイプに当てはまるのか分かるチェックリストも用意されていた。

 

チェックリストの結果、自分は「感覚型」で、身体的な感覚を通して天使からのガイダンスを受け取ることができるとのこと。

たしかに、体の一部がビクンと電気を通したように動いたり、全身に振動を感じることは結構ある。これはそういうことだったのだろう。

 

また、本には「他のタイプの感覚も練習することで磨くことができ、より明確なガイダンスを授かるようになる」と書かれていた。

試しに聴覚型の感覚を磨く方法をやってみたところ、練習として「343ページに書いてある数字を天使に聞いてみてください」というのがあった。

 

見てないページに書かれた数字が分かるなんて超能力じゃないか、と思いつつ天使に聞いてみると「8」と頭の中で数字が思いついた。

 

まさかな、と思いつつ見てみると343ページには大きく「8」と書かれていた。

偶然なのかもしれないが、もし頭の中に浮かんだ思考が天使からのものならば、普段自分が考えている思考も案外ガイダンスのようなものなのかもしれない。

 

「8」を思いついたとき、誰かが囁いてくれたわけでもなく、ただ単純に思いついただけだった。自分の考えが実は高次からのメッセージという可能性もあるんじゃないだろうか、と思える体験だった。

 

そういえば、みけさんがパブーで販売している対談本「多次元対談・宇宙人といっしょ」にも、「自分の独り言とチャネリングは同じってことでいいんじゃないか」みたいに書かれてたと思う。たぶん。

 

 

 

ついて行かなくていい話題

お金や健康に関する話題は多かれ少なかれ皆好きなものだと思う。

 

何故ならそれらは『生存』に深く結びつくから。

好きなことをしよう、好きに生きようという人生観、哲学も『生存』があって成り立つ。

 

アセンションの方向に舵を切ると決めると、これらの話題とは真逆の観点を持つようになる。

そもそも『生存』という概念そのものが存在しない。フィクションだ。

あるのは自由な創造、ただそれだけ。

 

そして、アセンションという方向の視点を維持するということが一つのポイントだと思う。

お金に関しても健康に関しても基本的にはオール無視。それらの話題はついて行かなくていい。

そうすると必ずマインドは焦りと不安で一杯になる。そのマインドを手放す、この連続。

 

とにかく『生存』を前提とした話題には一切ついて行かなくていい。そうした方がかえって物事はうまく回るようになる。

 

『生存』と『維持』

『生存』と『維持』。

この二つの言葉から自分はだるさとか重苦しい、といったような波動を感じる。

 

例えるなら夏休みの宿題を延々とやらされるような重苦しさ。本来は自由に遊べるはずなのに学業に拘束されてしまう面倒臭さ。

 

なんかそれに近い感じ。

 

昨日の夜、寝る直前にこの二つの言葉が急に降りてきた。

その二つをボーッと眺めていると、徐々に言葉の裏にある波動も読み取れるようになる。

んで、波動を見てみると…なんか「人工的」って感じがした。

 

例えるなら、誰も踏み入ったことのない青々とした木々が生茂る森の中に突如、高層ビルディングが建てられていた…みたいな。

 

要は自然的ではなく「違和感」が勝るということ。

この二つの思考、概念は本来は存在しないはずのものなのだ。「本来」というのは一元的な宇宙、意識状態。

 

この二つの思考から「現実を注視しなくては」と脅迫的な観念が生まれる。ははぁーよく出来るな。

 

なんか少し感心したというか感動したというか。

 

普段意識することもない生活の全てに『生存』と『維持』は潜んでいる。そもそも維持をするための「生活」なわけで。

 

 

 

 

 

二元性の舞台

私たちは生きている、ということになっている。

そして、いつかは「死」を迎える…ことになっている…社会的な常識として。

自身を「生」と定義した瞬間に「死」が浮かび上がってくる。生と死は一つでセットだ。

 

でも、じつは「死」を経験した人は地球には一人としていない。何故なら死んだら戻ってこられないから。他人が死んだ瞬間を見たことはあるが、自分自身は死を経験したことはない。

 

臨死体験をした、という人はいるっぽい。高校の頃に本を読んだことがある。でもそれは本当に「死」だったのだろうか?ただ夢を観ていただけなのでは?

 

実は「死」の定義もその実態もとても曖昧であり、誰も未だ体験したことはないのだ。

 

だとすれば「死」を恐れるのは何故なのか。そもそも「死」ってなに?という疑問は一度は皆考えたことがあるのだと思うが、結局答えは出てこない。

むしろ世間では「死」ついて考えることはタブーになっていると思う。

 

昨日、言語化は出来ないがとても象徴的な夢を観た。それは二元性を象徴としていて、自分はそれを上から見ているような構図だった。

 

朝起きて、ぼーっとしていると少しづつその意味が明確になってきた。

 

結局、この星の価値観を支えている思考パターンには必ず二元性が潜んでおり、その二元性は本来の事実を濁し、分離させ、難解にさせる。

 

「死」についていえば、体験したことのない死が恐ろしくなるのは、「生きている」と思うからである。生きているという思考は二元性に支えられ、そこから「死」という概念が生まれる。

 

生きようとすればするほど「死」は濃くなり、死のうとすればするほど「生」は濃くなる。

そしてその二つは元は一つなのだが二元性のフィルターを通すことにより複雑に、難解になる。

 

二元性のフィルターを通さなければ真実は至って簡単で、私たちは実は生きてもいないし死にもしない。

 

そういう存在なのだ。

 

生→死というプロセスは二元性のフィルターを介してのみ発生する。

 

生きよう、生き延びようとする精神論。一見、美しく見えるかもしれないが、実はそう思えば思うほど「死」の概念にしがみついているのだ。

 

他者も自分もいない

 

 

社会では良い意味でも悪い意味でも他者を気にすることが重要なこととされていると思う。

中学の頃によく「人の振り見て我が振り直せ」と学生指導の先生が話していたのを覚えている。

 

テレビやニュースの内容も基本は他人のことしかない。誰が誰を殺したとか、誰が不倫したとか。

そうした環境内にいると自然と他者に思考が向きがちだが、意識が広がる、いわゆるアセンション方向に意識が向くとそれらはただの「緊張」として捉えられるようになる。

 

世間の流行や友人や家族のことも気になるのであれば基本「緊張」なのだ。

その力みは自身の意識内で起こる。気にしないといけないのではないかという力み。

そしてその力みが完全になくなった時「他者」はいなくなる。

 

他者がいなくなるとはどういうことか。それは「自分」もいなくなるということである。

 

自分がいるから他者がいる。他者がいるから自分がいる。どちらも意識内での力みであり、本来の「私」という意識より歪んでいて狭く低い。

 

 

 

 

 

「結果」に焦点を当てない

一昨日くらいにフッと気づいた。

結果を気にしたらその時点でアセンション ではない」と。

 

ハイヤーセルフと繋がっている感覚、そこで肝となるのは「ワクワク感」だ。

ワクワク、すっきり、喜び、といった感情。

これらはハートの内側から光となって湧いてくる。

そしてこの状態でいればそれが「正解」なのだ。

 

ワクワクしている時、自分が何に興味が向いていて、そのカテゴリは役に立つかとか、仕事に出来るのかとか、誰かのためになるのかとか、一切関係ない。

 

社会にいると、どうしても結果や業績なんかを気にしてしまう。でもそこからは意識的に離れて結果よりも感覚重視でいかなければいけない。

 

結果に正解を求めるのではなく、感覚に正解を求めること。これが波動を上げる決め手である。